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荊州篇

荊州は、四方を山に囲まれている盆地であるが、交通の便の悪い蜀と違って、揚子江の水運が古くから発達し、人と物の往来が活発でありました。この豊かな土地を目指して、当時戦火を逃れた人たちが大量に移動してきていました。彼らはこの元来沃土だが未開であった荊州の地の開発に勤しみ、この地はかってないほどの活気を帯びます。
また、多くの知識人や士大夫階級のものもこの地に流れてきており、襄陽を中心に学術文化サロンが開花しました。 この地から、諸葛亮をはじめ多くの賢者を輩出しました。
孔明の「天下三分の計」は、益州と荊州に拠り、孫権と同盟して曹操に対抗します。孔明にすれば、肥沃な巴蜀地方を後方に押さえて兵を養い、漢中と荊州の二方面を前線に、孫権との同盟を生かす外線作戦で曹操の大軍をうまく分散させる思惑でありました。 荊州の北端からは、曹操の本拠地·許昌および洛陽まで、直線距離でたったの100キロあまりであります。 機に乗ずれば一気に攻略することも可能な距離でりました。
孫権にしてみれば、揚子江の上流に位置する荊州は、呉の腹背とも言うべき地点であり、ここに他の強力な勢力が根を下ろすということは由々しき事態であり、またこの地は孫氏三代の宿願の地でもありました。
荊州の重要性について魯粛の言葉を引用すると、
「荊楚の地は、呉と隣接し、水流は北に順い、外を長江と漢水が取り巻き、内には険しい山陵があり、まるで金城の堅固さです。沃野は千里の広さを持ち、士も民も豊かです。もしここを領することができたなら、まさに帝王となる為の資本とも言えましょう。」であります。
曹操側から見るとすれば、荊州を再び我が物にすることができたならば、天下はもうすぐそこでありました。
荊州は、関羽が10年間君臨していた所で、劉表時代は、荊州の中心が襄陽でありましたが、関羽時代は、荊州(当時は江陵)が中心となりました。なお、ここは昔、江陵県でありましたが、周辺を合併して荊州市となりました。その後、さらに1997年に沙市市と合併して一時、荊沙市となりましたが、地元の要望で由緒ある名前を残そうということで97年に荊州市に変更したといいます。
荊州は赤壁の戦いの後、劉備が荊州7郡のうち、数郡を譲ってくれと孫権にお願いを出しました。協議によって、荊州は劉備のものとなりました。三国演義では、赤壁の戦いの後、荊州城は曹操の息子である曹仁が守っていました。そこを周瑜が攻め、曹仁の追い出しに成功しましたが、諸葛亮の計略により、劉備が城を奪い取りました。呉から荊州の返還を要求された劉備は、行く所が無いですので、蜀(中国西南部)を攻略するまで暫し荊州を借りる約束をしました。
その後、周瑜は、孫権の妹を劉備に娶らせ、劉備を暗殺しようとしますが、失敗しました。また、四川を攻めに行くという口実で荊州城を占拠しようとしますが、それも失敗になりました。ことごとく計が失敗した周瑜は、諸葛亮を同じ時に生まれたことを悔やみながら、30歳半ばという若さで死にました。その後、劉備が四川を攻めに行く間、関羽がこの城を守ることとなりましたが、借りたまま孫権に返すことはありませんでした。そのため、中国では「劉備が荊州を借りる」ということは、返さないという意味になりました。

赤壁篇

かつて『三国志』の中の「赤壁の戦い」の古戦場として有名になった赤壁は、当の湖北省には2ヵ所があります。一つは、湖北省の蒲圻(現在は赤壁市と改名)の西にあり、後漢末期の208年、曹操と孫権·劉備の連合軍が実際に闘った場所であります。もう一つは、宋代の詩人蘇軾(そしょく)(東坡)が作った「赤壁の賦」で有名な黄州(湖北省黄岡県)赤壁であります。1082年、蘇軾が流罪地黄州の長江に舟を浮かべて赤壁に遊び、「前赤壁の賦」と「後赤壁の賦」を詠いました。戦場ではなかったため、人々は黄州赤壁「文赤壁(詩文の赤壁)」と呼ばれ、「武赤壁(戦いのあった赤壁)」蒲圻赤壁とを区別しました。
蒲圻赤壁の真上に公園があり、そこに呉の功臣周瑜(175―210)の石像はそびえ立っています。降服論が大勢を占めていた呉では、周瑜はひとり主戦論を唱え、蜀の劉備と同盟を結び、赤壁で曹操の軍船を焼討ちして、魏軍を敗退させた周瑜は、やはり英雄でありました。
公園の後ろは、城壁と三国時代の兜の形を取った「赤壁大戦陳列館」であり、さらにその後ろには諸葛孔明を記念する「武侯宮」もあります。上に「拝風台」と書いてあり、ここは孔明が東風を拝借した所であります。

当陽篇

関陵

関羽の遺跡、当陽の中心部から西北へ約2Kmのところにあります。関帝廟は世界中にありますが、その中に、河南省洛陽の関林(首塚)、山西省解州の関帝廟(関羽故里)と、当陽の関陵は有名であります。
趙雲、張飛が当陽で活躍してから11年後、荊州を守っていた関羽は、曹操と孫権の挟み撃ちにあい、関平らと夜に間切れて北門を突破し、西へ向かって逃げましたが、追っ手と戦う中、10余騎しかいませんでした。臨沮(決石)まで逃げた時に呉軍の伏兵が現れて捕えられました。殺された場所は諸説があるものの、捕えられたのは遠安の回馬であります。
このあたりは昔、{·章}郷といわれ、ここで関羽が殺されたといわれています。演義では、関羽が殺された時、呂蒙が呪い殺されたり、玉泉寺に霊現があったりして、関羽の死は神格化されました。孫権は関羽を殺しつつも、王侯の礼をもって葬りました。劉備の怒りを曹操に向けるため、首は洛陽に送られました。曹操は関羽の首を手厚く葬り、今の関林となっています。よって、ここは首のない遺体が葬られたことになります。

長坂坡

当陽長坂坡公園は当陽より約1.5hほど離れた県の町、 三国志では『長坂坡の戦い』で有名であります。長坂坡は当陽県の西南部に位置し、以前は一面丘陵で、草木が生い茂っていました。
後漢の建安13年(西暦208年)曹操は、新野での諸葛孔明の火攻めに対する復讐のため、自ら五千もの人馬を引きつれ襄陽を出発し、劉備を当陽まで追い詰めました。劉備は十数人の家臣を引き連れ逃げましたが、家族や家臣全てを曹操軍に包囲され、趙雲は劉備の妻子を救うため、単独で曹操軍と戦い、劉備夫人の糜竺和甘と子の阿斗を救い出しました。それからというもの、趙雲は世にぬきんで英雄の名誉を獲得し、この家臣が主人を救うという故事は中国では英雄談としてよく知られ、明の1582年、丘の前には記念碑が建てられ、1934年に長坂坡公園が作られました。公園に劉禅を抱く趙雲像などもあります。

襄樊篇

劉備が諸葛孔明に三顧の礼を尽くした「古隆中

襄陽古城の西門から南西に約15kmの隆中山東麓にあります。三国時代の政治家·軍事家である諸葛孔明(181~234年)の旧居であります。劉備が孔明を軍師として招くために3度訪れたという「三顧の礼」の故事で有名です。孔明はここで晴耕雨読の生活を送り、「臥龍」と呼ばれていましたが、劉備の熱意に動かれ、ついに輔佐役について「天下三分の計」を説いたといいます。林の中に立つ「古隆中」と書かれた古びた牌坊を抜けると、孔明の古居のあった草廬亭や、武侯祠、三顧堂、抱膝亭、臥龍深処などが立ち、一通り見るには半日は必要であります。なお現存する建物の多くは清代のものであります。

襄陽古城

襄陽古城は2007年の歴史を持ち、三国時代に関羽が攻めた襄陽城であります。 現存するのは明清時代に修築されたものであります。城壁はほぼ方形で、高さ約8m、全長7.5kmであり、城内の面積は3.6k㎡に及びます。北側を除き、三面の城壁を護城河が取り囲み、難攻不落と言われた古城の風格を見せています。もとは六つの城楼がありましたが、今は漢江に面した臨漢門(小北門)と北門に残るのみであります。城壁の北西隅には夫人城と呼ばれる一角があります。東晋末、将軍の母親の韓夫人ら女性たちが城壁を二重にして、前秦軍の攻撃から城を守ったことに由来します。

宜昌篇

猇亭古戦場

猇亭は過去数十回以上の戦が行われた地であり、その中で最も有名なのが蜀漢の命運をかけた夷陵の戦いであります。関羽の仇打ちに燃える劉備軍80万の大軍が陸遜の火計に遭い敗戦しました。
蜀将フトウの奮戦に感動します。劉備が馬鞍山で呉軍に包囲された際、劉備を救出するために呉軍の中に飛び込み突破口を開こうとしましたが無残にも戦死しました。その彼が馬に跨っている塑像が入口左手にあります。また、当時劉備、関興、張苞が陣を敷いていたといわれる場所もあります。

張飛擂鼓台

流れる長江(西凌峡)を見据えており、この景色が最高であります。塑像は荒削りですが迫力満点であります。
劉備が江南を平定した後、張飛を征虜将軍新亭侯に封じ、宜都太守に任ずます。言い伝えでは、その時期に張飛がこの場所に擂鼓台を造り、劉備の軍勢が滞りなく三峡を遡り益州を攻略できるようにするため、休む間もなく鼓を叩いて兵を督し、演習を行いました。時には張飛自らも鼓を叩き、将兵を激励したとされます。また擂鼓台は「鎖江石」とも称され、張飛が鉄鎖を張り巡らして蜀へ向かう舟を止めていたとされます。

雲陽篇

張飛廟

雲陽県城外、長江南岸の飛鳳山麓に位置し、三国時代蜀漢の名将張飛を祀るために建てられました、巴蜀随一の名勝の誉れ高い旧跡名所であります。
言い伝えによると、良中で張飛を裏切って殺害した彼の部下でありますが、その首級を携えて呉に褒賞を要求しましたが、呉蜀和議の知らせを聞くと大慌てで逃げ出しました。この故事から張飛の遺体の胴体部分は良中に、頭部は雲陽の地に眠っているとの伝説が生まれ、雲陽の張飛廟も修繕が行われることになりました。
張飛廟は蜀漢末期に建立され、宋·元の時代以降たびたび修繕されてきました。清同治九年(1870年)に起きた洪水で大部分が被害を受けたため、現存の廟は洪水後に修復されたものであります。廟は長江に面しており、前方の石壁に刻まれた「江山風清」の壮大な4文字に目を奪われます。華麗宏壮な正殿には、両側に軍馬を従えた張飛の大きな塑像が祀られています。主な建造物に、劉備、関羽、張飛による桃園結義を記念した結義楼、張飛が亡き関羽への想いを託した望雲軒、伝説で神となった張飛が船乗りたちのために風を起こしたとされる助風閣などがあります。また唐代の大詩人杜甫がこの地で不如帰と明月を題材にした詩篇を数多く詠んだのにちなんで、彼を記念する杜鵑亭と得月亭が建てられました。
そのほか廟内には唐時代以降の著名な石碑文字や書画が数多く保存されており、歴史書の所蔵量も蜀随一で、かつて日本の商人が頻繁に買い付けに来たため「文化名勝」と評判が高いであります。木版書画と岩刻書画400点余りの中には希少価値のものも多く、訪れた愛好者たちは時間を忘れて見入ってしまうといいます。

歴史に残る三峡名戦

赤壁の戦い

中国三国時代に魏の曹操の軍(15万)と蜀の劉備·呉の孫権連合軍(推定5·6万)の間で長江の赤壁(現在の湖北省)で起きた戦いであります。連合軍側の勝利で終わり、曹操の天下統一の野望も頓挫しました。
208年、荊州を手に入れた曹操は呉攻略に乗り出し、荊州軍もあわせ百万と号する大軍で呉に押し寄せました。この戦いに勝利すれば曹操の大陸支配は決定的なものになります。
一方、江東に勢力を伸ばしていた孫権は、この報に驚き、文官と武官を集めて論戦が行われましたが、呉では、主戦論と降伏論に真っ二つになり、諸葛亮の説得と周瑜(しゅうゆ)提督の決断により開戦と決しました。(当初、周瑜は魏に降伏する考えでありましたが、諸葛亮から曹操が作った詩で「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻)を欲しがっていると聞かされ、怒って孫権に対して戦うようにと主戦論を主張しました。)
 両軍は、長江に沿う赤壁で対峙しました。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断しました。周瑜の計略により荊州水軍の要である蔡瑁が曹操に謀殺されました。蔡瑁謀殺後に、曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中·蔡和に対して偽情報を曹操軍に流させるなど大いに利用しました。そして、苦肉の策を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ、曹操軍内に下らせました。また、火計を効果的にするため、当時の在野にいた嵩を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のため、船同士を鎖でつなげる「連環の計」を進言しました。問題は、当時の季節-10月には、東南の風が吹かないと言う事でありましたが、諸葛亮はこの時期に東南の風が吹く日があるのを初めから知っていました。機は熟したとばかりに黄蓋が藁積んだ船に火をつけさせ、火計を実行しました。「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上しました。更に東南の風で地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られました。なお、周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛亮は、東南の風が吹いた直後に、その風を利用して劉備の下へ逃げ去りました。
一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけました。しかし、諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は得策では無い」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、曹操を逃がしてしまいました。こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、劉備と孫権の係争地となります。

夷陵の戦い

220年、曹丕(そうひ)の魏(ぎ)建国に対抗して、劉備(りゅうび)は蜀(しょく)を建国しました。その後、劉備は周りの反対を聞かず、魏·呉(ご)の秘密同盟で殺された義兄弟の関羽(かんう)の弔い合戦として呉討伐の出撃を決めました。しかし、出陣直前にもう一人の義兄弟 張飛(ちょうひ)も部下の裏切りで殺されてしまいました。
呉は、戦いに備えて魏に対して”魏の捕虜”于禁(うきん)”返還”と”呉が魏への臣下になる”という屈辱的条件で同盟を結び、蜀に備えます。
呉は、準備を整えましたが、221年の緒戦で呉の孫桓(そんかん)·朱然(しゅぜん)軍が蜀の劉備軍に敗れました。次に出撃した名将甘寧(かんねい)·潘璋(はんしょう)も打たれてしまいました。蜀も五虎将の一人黄忠(こうちゅう)が戦死しましたが、蜀が圧倒的に優位な状態でありました。
222年2月、呉は、荊州の太守であった陸遜(りくそん)を大都督(最高司令官)として蜀に当らせました。蜀では、参謀の馬良(ばりょう)が適当な勝利で引き上げることを提案し、また、参謀の黄権(こうけん)が”長江を下って攻めるのは簡単でありましたが、退却時には川を上るので、困難でありました。また、陸地は切り立った山が多く、こちらも容易な場所ではないので、主力が移動せず後ろに配置すべきである”という旨の内容で諌めましたが、劉備はそれを聞かず、自ら主力を前に押し出して侵攻を決めました。
それに対して、陸遜は、最初に守りを固めて蜀軍の疲れを待つ戦法を取りました。この間に、劉備は補給路を確保するため、陣を長く配置し、敵地深く入り込んでいました。戦いは、長江を境に両軍が相対して、半年以上という長期戦になりました。
先に動いたのは、やはり劉備でありました。呉軍を誘い出すため、平地に少ない兵を置き、伏兵を谷に隠すという策を取りましたが、この作戦は陸遜に読まれ、失敗に終わりました。その後、劉備軍は谷川に近い山中の木陰に陣を移しました。
終に陸遜軍が動き始め、”蜀の兵の疲れ”と”作戦の失敗による士気の低下”をあげて将兵を説得し、攻撃に出ましたが、序盤は敗れてしまいました。そこで、陸遜は火攻めに作戦を変更し、大成功しました。劉備軍は陸遜の火攻めにあい、大敗を喫しました。
劉備は、前線の白帝城に逃げ込んで、そのまま病に伏してしまいました。失意のうちに白帝城で臨終(63歳)を迎え、諸葛孔明を成都から呼寄せ、後事を託しました。

長坂坡の戦い

208年8月1月、官渡(かんと)の戦いから八年後、曹操(そうそう)は八万の軍を持って荊州(けいしゅう)攻略を開始しました。
曹操は北方を平定した後、南征のため、許(きょ)都に玄武池をつくり、水軍を訓練し、準備を整えました。その頃、荊州は長官の劉表(りゅうひょう)が亡くなり、劉ソウ(りゅうそう)が後を継いだばかりのタイミングでありました。
官渡の戦いの後、劉表の元に身を寄せていた劉備(りゅうび)は曹操との前線に近い新野(しんや)の城を任されていました。この頃、劉備は「脾肉の嘆(ひにくのたん)」を脱して、「臥龍(がりょう)」と呼ばれる天才的人物である諸葛亮(しょかつりょう)を参謀(軍師)として、有名な”三顧の礼(さんこのれい)”によって招きました。
劉備は曹操に目の敵にされ、夏侯惇(かこうとん)に新野攻めを命じましたが、諸葛孔明の初采配で見事に撃退されました。諸葛亮は、曹操が必ず再起を図って自ら攻めて来ると考え、劉備に荊州を乗っ取るよう助言しましたが、劉備は納得しませんでした。後継者”劉ソウ”は長男”劉キ”を差し置いて後を継いだ経緯がありました。劉キは親劉備派の人物で、その劉ソウは器量が小さく、曹操の降伏勧告に戦わず降伏しました。劉備は劉ソウが降伏したことを知らず、気づいた頃には曹操軍が迫り、孤立した状態となっていました。劉備は一時撤退を決め、荊州の都·襄陽(じょうよう) に戻ろうと近くの樊城(はんじょう)まで退却しました。しかし、すでに曹操への降伏を決めた劉ソウは、襄陽に入城することを拒否したため、劉備軍一行は江陵(こうりょう)まで退却することを決めました。
曹操は襄陽に入城した後、劉備軍を急襲するため、5千人の精鋭騎馬隊を編成しました。劉備は人民を見捨てることはできず、先に舟に乗せて関羽とともに避難させるという通常では考えられない行動に出ました。一路南下する劉備らは、新野より随う領民を擁した為、進行に遅れが生じてしまいました。途上の当陽県長坂に差し掛かった際、遂に曹操軍に追いつかれ、攻撃を受けてしまいました。敗走する劉備軍の殿(しんがり 撤退の最後尾)を努めていた張飛が、長阪橋で矛を構えて曹操軍をくいとめました。この時、張飛は”100万の敵に匹敵する”と曹操(そうそう)にいわしめました。

 また、趙雲が逃げる途中で行方不明となった劉備夫人(甘夫人)とその子(劉禅)を一騎で曹操の大軍の中から救い出すという快挙をあげたのもこの時でありました。